山城達雄エッセイ

小説家、山城達雄のエッセイ

蘇る情景ーわたしの八月十五日ー

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 年を経るにつれ、一つの情景が鮮明に浮き出てくる。

 わたしたちは、ジャングルの中のトタン葺きの長屋に居た。中年の女のひとが別の自分の長屋から駆けてきて、「日本が敗けた! 戦争が終った!」と叫ぶようにいった。

 大人や子供たちのざわめきが一瞬とだえた。静寂が辺りを支配する。大人たちの顔がさまざまに変化するのをみて、子供たちは素早く重大ななにかを感じとって沈黙したのかもしれなかった。それにしてもなぜあの瞬間のあの情景だけが、こんなにも鮮やかにわたしの脳裏に刻印されているのだろう。

 南洋の陽が傾きかけた午後であった。深いジャングルの木々の葉が暑さのため、萎えてしおれていたような気がする。世界がひととき静止したように感じられたのは、ついさきほどまで上空を飛び交っていた米軍戦闘機の爆音がピタリとやんでいたからだろうか。

 わたしはあの時九歳だったが、日本が敗けた、だから大変だとか、くやしいと思う気持ちはみじんもなかった。ただなにかしらほっとした感情が胸中をながれた、という思いがいまある。

 日本が敗けたと告げられた瞬間ジャングルが静まりかえっていた情景が、のちに読んだ宮本百合子の小説「播州平野」の一つの場面と重なり強烈な印象とともに思い出される。

 ……周囲の寂寞におどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。村じゅうは、物音一つしなかった。寂として声なし。…八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑とした声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。……

 いうまでもなく、宮本百合子が描いた情景は、日本軍国主義の敗北をじゅうぶん認識したうえでのことではあったのだが。

 

 

 叔父の呼び寄せでわたしたちの家族がパラオ島に移住したのは太平洋戦争のはじまる前年で、わたしが四歳の時だった。夫を早く亡くした母が北部の片田舎で、子供二人かかえて農業で貧しく暮していたが、生活の活路を見出すため、意を決して応じたというのを後で聞いた。

 しかし、戦争は間もなく急速に進展し、一九四四年三月にパラオ諸島も最初の空襲にみまわれる。同年七月にサイパン、八月にテニアン、十一月にグアムが「玉砕」する。

 パラオ諸島では、九月にペリリュー島アンガウル島に米軍が上陸し、両島で一万一千六百六十八人の日本軍戦死者が確認されている(地元民や民間人の戦死傷者の数は不明)。

 わたしたちは、米軍の上陸をまぬがれたパラオ本島(バベルダオブ)の奥地のジャングルに疎開させられ、敗戦の日まで、餓死状態の暮しをしいられた。サイパンテニアン、グアム、ペリリュー、アンガウルの「玉砕」とパラオ本島の空襲や餓えによる死者を含め、南洋諸島での犠牲は沖縄県人だけでも約一万二千人といわれる。

 

 

 たびかさなるジャングルからジャングルへの移動。空襲の恐怖。飢餓。あの時悲壮な面持で敗戦を告げた女のひとの叫び声を聞きながら、子供ながらも安堵の気持ちが漠然とあったということも決して不思議ではない気がする。

 ジャングルからの解放後わたしたちは、以前の日本人「集落」跡に集り、沖縄への帰還命令を待った。

 一九四六年にわたしたちは、コロール島と指呼の間にあるアルミズ水道に突き出た本島側の埠頭から、米軍船LSTに乗せられ沖縄へ向かった。

 

 

  四月のはじめ沖縄タイムス紙に、「沖縄市は戦後五十周年事業として、終戦直後、海外や本土からの引き揚げ者のために米軍が収容所を設置した『インヌミ屋取(ヤードゥイ)』を調査する。」「『インヌミ』は現在の沖縄市高原の辺り」という内容の記事が掲載された。ハッとして、わたしは記事を再読した。インヌミ屋取は沖縄に上陸して最初に収容された場所だ。自分の体験が歴史として調査の対象になろうとしていることに感慨をおぼえたのである。

 記事には「中城村の久場崎から上陸した」とあるが、下船の模倣はなぜかわたしの記憶からは脱落し突然、収容所の風景が展開する。

 木も草も生えていない荒涼とした丘陸の頂上から斜面にかけて数百のテントが張られ、犇めくように人々がたむろしていた。静かな湾が見下ろされ、米軍艦船が数隻停泊していた。わたしたちは数日間この場所にいて、それぞれの故郷へ向った。

 つぎの記憶は、無蓋の軍用トラックに乗せられ、白い砂塵の立つがたぴし道を疾駆している情景である。ときどき行き交う米軍トラックの黒人兵たちがピューッと指笛を鳴らし、身を乗り出してはしゃいでる姿が強烈な印象としてわたしに迫る。

 わたしたちは午過ぎ本部村渡久地の役場に到着した。衣類など最小限の荷物を入れたリュックを背負っていた。母の従姉の娘という方が迎えにきていて、その方と母が抱き合って泣いていた姿が鮮明だ。しかしその場だけ照明があたったように鮮やかだが、あとは暗闇につつまれている。

 ついでわたしのなかに現出する場面は、渡久地から約六キロ奥地に入ったところ、本部半島の中程にある伊豆味の母の実家で、やはりテント小屋で暮していたことである。この山深い集落の農家の家々もことごとく焼かれ、森も林も焼き焦げて、ところどころに立ち枯れの木が立っているのみだった。

 わたしたちは、なんとか飢えをしのげる程度の米軍配給品を支給され生きていたのだったが、とにかく「平和」だったし、前途にはほのかな灯が見えてくるようで、心は安らいでいた。

 

 那覇文芸 あやもどろ 戦後50年特集号 1995  3号 1995年8月15日発行 p52掲載)

 

 

〔参考文献〕

沖縄県

戦史業書「中部太平洋陸軍作戦(2)」