山城達雄エッセイ

小説家、山城達雄のエッセイ

コーヒーの味はシンフォニー

 "ニーチェ"という哲学者の名を冠したおいしいコーヒー店があると知人に教えられ行ってみた。

 その店は繁華街からはずれた街の一角にあるのだが、いつきても落ち着いた賑わいがある。

 わたしはコーヒー好きで、市内のかなりの店を巡り歩いている。この数年、ああいい店だな、と思ってかよっていたところが店じまい、というのが目立つ。他の飲食店もそうらしいが、コーヒー店にも不景気の風がおよんでいるようだ。

 コンクリートの壁に這う濃緑のアマミツタにおおわれた入口を入り、左側に歩むと木製の円るいテーブルがあり、対の腰掛けがある。空いておればわたしはたいていそこに座る。ガラス張りの向うに小さな公園が見える。大きなベンジャミンの枝が透明なガラスを縁取って絵のようだ。下の畳一枚ほどの小庭にはツワブキの厚い葉や他の草葉が風になびいている。

 爽やかな五月にふさわしくメンデルスゾーンの”イタリア”が流れている。白いブラウスに黒いスラックス姿のウェイトレスが活発な足どりでやってくる。わたしは「キリマンジェロ」と手づくりのケーキを注文した。

 炒れたてのコーヒーのおいしいこと。しばし放心して味わう。ここはわたしにとって日常からちょっと横丁にそれた異空間である。

 店内を見渡すと楕円形のスタンドに腰掛けた若い男女がひそやかに語り合っている。奥のテーブルではOLらしい数人が時どき笑い声をはじかせて話している。その横では紳士が熱心に読書している。

 

 それにしても人間は琥珀色の苦味がある液体をいつごろから飲むようになったのか。

 コーヒーは十六世紀の後半に東方へ旅行したヨーロッパの知識人によってトルコからもたらされたという。約一世紀の間にはベネチアやロンドンに伝わり、民衆の間でも飲用されて急速にヨーロッパ、アメリカ各国で流行したといわれる。コーヒー・カフェなどの用語はアラビア語のカフワからトルコ語へ移されたものらしく、アラビアでコーヒーの飲用が始まったのは十一世紀の初めだという。

 日本にコーヒーが入ってきたのはいつだったか明らかではないが、天明年間(一七八一〜八九)の「紅毛本草」の中に”古闘比用”の文字がみられ、そのころ日本に伝わったという話を何かの書物で読んだことがある。

 明治の初年にはコーヒー豆が輸入され、官公や上流社会の交際の場や外国人の宿泊するホテルなどで飲まれるようになり、次第に大衆化したようである。

 沖縄でコーヒーが飲用されるようになったのはいつなのかわたしは知らない。いずれにしても明治以後のことにちがいない。

 戦後わたしたちは、米軍人、軍属が基地内の職場や家庭でコーヒーをお茶のように飲んでいるのを見てきたものだが、一般民衆はしばらくの間、いまのように嗜好品として楽しむゆとりはなかった。ようやく経済的にも精神的にも余裕がでて特色ある良質のコーヒー店が那覇にも、山原の森や南部の海辺にもできて、しかも客がちゃんと入っているのである。

 

 ある時、きびきび立ち働いている女性オーナーと話す機会があった。

「今日のコーヒーおいしかったな」

「ありがとうございます。コーヒー、昨日と今日でおいしさがちがいますか?」

「いや、あなたの店のコーヒーの味は変わりません。私自身のおいしさがちがうのです」

「なるほど…。うちの店はいかがですか?」

「コーヒーの味とは、それ単独のものではなく、店全体がつくりだす味なのです。あなたの店は木と石、骨董品的な調度品をうまく組み合わせて作られていますね。黒光りする楕円のスタンド。円形や長四角の木のテーブル。天井にとどく木彫のある背もたれ椅子、ヨーロッパ風のカップ、スプーンと皿、それら全体が溶け合って、ある雰囲気をかもしだしています。かりにコーヒーのうまさが七十パーセントとしても、店内の調和が奏でるシンフォニーより、百パーセントになるのです」

「ありがとうございます。うちのスタッフはいかがでしょう」

「そうそう、肝腎な人の要素がぬけ落ちていました。洗練されたスタッフによる接客。それはコーヒーの味を百二十パーセントにします。あなたのところのスタッフはすばらしいです」

 急に忙しくなり、女性オーナーはにっこり笑って仕事にもどった。

 もうすこしわたしのコーヒー”論”をしゃべりたかったが、いたしかたない。

 

那覇文芸あやもどろ 第5号 1997年8月30日発行 p115掲載)